自分ではない人と対話し続けること

あら環ぱにぃ芸術祭2013語りの会、「みんなで語ろうわたしが考えるpeaceな暮らし~辞書をつくろう~」、無事に終了しました。

今年は少人数で、深い話ができたし、理想の授業を模索していくという、来年度以降の土台ができたように思います。
今年の授業は、国語の授業。
こんな国語の授業があったら、どうやって平和を作っていくかにつながる教育ができるのではないか?という一つの案として、今年は、言葉の意味を考える、ということをしました。

言葉の意味を考えることは、すごく、「考える」行為です。
そして、考えることは、お互いが気持ちよい社会をつくっていくためにとても大切なことだと思います。
そうして、自分の考えたことを、自分ではない、つまり必ずなにか別のことを考えている人と話し合い、分かち合うことを通して、違う意見をもっていても一緒に仲良くやっていく形を模索したいと思ってこの会を開きました。

今日のお題は、

芸術食べもの、(子どもを)育てる平和

の4つ。
それを、第一部ではそれぞれ並列で自由に考えてもらい、第二部では、平和を真ん中に置いて、芸術と平和の関係、食べものと平和の関係、子どもを育てることと平和の関係を意識してもらいながら、自分たちひとりひとりが平和のために何が出来るか?ということを少し念頭において、さらに言葉について話し合ってみました。

10代から70代までが、異なる視点から話す一生懸命の思いは一つ一つ興味深かったです。
平和とは、相手を受け入れることではないか。
食べものから、土とのつながりへ。土はすべての原点ではないだろうか。
食べるとは、生きようとする意志。
…などなど。

平和とは、自分と違う誰かと共に生きていくことのように思います。
そして、芸術とは、人と違っていること、ものさしがたくさんあって、多様性がよいこととされる世界であり、そういう意味で平和につながっています。
また、平和とは、食べものをわかちあえる社会ではないでしょうか。
そのためには、自分が何をどのように食べ、どんな土を次世代に残すかがかかわってきます。
同時に、食べものは自分を作っていくので、自分が元気であることが、周囲を元気にしたり、医療費を減らしたりするという意味でも、食べるということは、とても社会的な行為です。
そして、育てるとは何かということを考えることを通して、人は、社会について、今について、未来について、一番真剣に考えると思うのです。
こうして選んだ4つの言葉を、参加した方一人ひとりに、考え、話し、聞いていただきました。
そのことが、一人ひとりの中で、なんらかの変化になってくれることを願います。

大切なことは、語り続けることだからです。

実行委員の一人が言ってくれた、いたるところにあら環ぱにぃを!の思いを、この手にしっかり握りしめていたいと思います。
3人のおじさんおばさんのある日の思いつきからはじまった、美しいものを楽しみ、つながり、平和を語らうお祭は、今年も種をまきました。
誰でも、始められるし、広げられる。

話し合う機会が、これからも、いろんな場所で、生まれていきますように。

aya

happiness

誰かが、自分は愛されていないと思うとしたら、それは幻想だと思う。

数え切れないほど多くの人たちが私たちを愛してくれて、今の私たちの暮らしがある。

その人たちが頑張ってくれなければ、私たちの吸う空気はもっと汚かったかもしれないし、水はもっと汚れていたかもしれないし、好きな本を読んだり言いたいことを言ったりできなかったかもしれない。
そもそも生まれられなかったかもしれない。

私たちはとても愛されて生まれてきたし、愛することができる。

幸福な私たちは、幸福なことをすることができる。

aya

あら環ぱにぃ芸術祭2013

鳥取で還暦を迎えた3人が集まって始めた、手作り芸術祭あらかん、今年もお楽しみください!

あら環ぱにい美術展
7/26~7/31
http://www.energia.co.jp/tori/event/1192526_1816.html

アンサンブル・ココペリ 木管三重奏の夕べ
http://www.ensemble-kokopelli.com/jp/ensemble.php
8/1(木)19時開演 鳥取教会
入場料2000円(高校生以下は無料)

親と子で楽しむコンサート 音楽物語「ヘンゼルとグレーテル」
8/3(土)10字30分開演 愛真幼稚園2階チャペルホール
入場料 500円(高校生以下は無料)
出演 アンサンブルココペリ 西岡恵子 ミルフィーユ

みんなで語ろう わたしが考えるpeaceな暮らし2~辞書をつくろう~
8/3(土)14時開始 
http://eathappiness.at.webry.info/201307/article_1.html

あら環ぱにぃ芸術祭2013メイン・コンサート 平和な大地を!
8/4(日)14時開演 鳥取市文化ホール
入場料 前売り券2000円 当日券2500円 高校生以下無料

ローマからの風コンサート ピアノ四重奏団 クァルテット・アヴォス
8/8(木)19時開演 鳥取大学アートプラザ
入場料2000円

「戦争の記憶」
8/9-10/6 日南町美術館
入場料 一般500円 高校生以下は無料
8/10
13時~講演会 講師:窪島誠一郎氏(無言館館主・作家)
14時45分~演劇&コンサート 日南町さつきホール

問合せ先 
全体 niikura@rstu.jp
~辞書をつくろう~ eat_happiness@yahoo.co.jp
「戦争の記憶」 asada2@town.nichinan.tottori.jp

みんなで語ろう わたしが考えるpeaceな暮らし【2013】 ~辞書をつくろう~

★あら環ぱにぃ芸術祭企画★

平和ってなに?
芸術ってなに?
辞書ってなに?

みんなでなかよく生きていくために、まずは言葉の意味、もう一度考えてみませんか?

あなたの思う平和とわたしの思う平和は違っているかもしれない。
違っていていい、まずは話し合ってみましょう!

今年もマクロビおやつつき、今回はレシピも公開します♪
参加費 500円(お茶代)

(当日実際に話し合っていただく言葉はまだ秘密です)

日時 8/3(土)14:00-16:00
場所 愛真幼稚園チャペルホール http://www.aishin.ed.jp/access/
申込 eat_happiness@yahoo.co.jp

ことばとしゃしんのページをはじめました

友達ののげさんの写真に私がことばをつけて、facebookページをつくりました(facebookしてなくても見れます)。
言葉と写真の旅、おたのしみください。
写真をクリックすると、黒字に、写真とことばがセットになったものが見れます。

https://www.facebook.com/cotosha

のげさんのtwitterはこちら。「自家栽培の野菜を露地に並べるるように、写真を路上で販売してきました」
https://twitter.com/noge_farm



aya

子どもの本棚

ちょっときっかけをもらって、0-5歳の子ども向けお薦め絵本リスト(読み聞かせ用)と、保護者さん向けリスト、要は、保育園幼稚園の本棚を担当したと仮定してリストを作りました。
特に目新しいものは載せていないけれど、はずれはないと断言できます。
私は、読んできた本が多いとは絶対言えないけど、子どもの本に関してだけは、見る目に自信がある。

どこまで入れて、どこから入れないかという辺りはテキトーの、即席リストではあるけれど、そうか自分はこういうこともできるのかと気づかせてもらって、ああ、(ビジネスではないけれど)仕事は、ふってくるからこそ面白い。
昨年あたりから、児童文学界審美眼的に相当恵まれた育ち方をしているのにもったいない、何かしたら、というお声をいただいているのですが、実際やると、やあ、楽しいですね。
自分に何ができて何ができないとか、何がしたくて何がしたくないとかいうことは、人と実際に動くこと、自分が動くことで、何かと何かがぶつかりながら、気がつけば巡りあっている。
だからやっぱり、生きるのは面白いです。
小さな一歩でも、踏み出すと決めて、一足動かせば、違う景色が見える。

実家が家庭文庫(=子どもの本の民間図書館@自宅)で、壁が子どもの本で覆われた部屋の中、読み聞かせとストーリーテリング(お話を覚えて語ること)を浴びるように育って、自分も文庫で子どもやお母さんと接して、母が子どもの本に関わる運動をしているのでそれにくっつく形で子どもの本に関する講演会をときには学校さぼって聞きに行って、東京出てきて東京子ども図書館の方と関わったり石井桃子(児童文学の神様)さんの家庭文庫で読み聞かせのボランティアをしたり…という感じの人生が、こんなふうに流れついて小さな実を結ぶのを体験して、ああつながっている、つながっていくんだなあって。

『子どもたちよ 子ども時代をしっかりと楽しんでください。 おとなになってから 老人になってから あなたを支えてくれるのは 子ども時代の「あなた」です』

という石井桃子さんの言葉は、今も私にとって至言です。

aya

もはや名前を手放したあとに

マクロビオティックでは、基本的にはお肉や乳製品、卵をおすすめはしません。
それは陰陽五行や、特にこれらを長年食べて来なかった土地の人の体質などなどから判断してそうなのですが、ブルガリアあたりをはじめとして、ヨーグルトを日々食べられて長寿の方がいらっしゃいますし、日本人(この言葉は定義の成立として簡単に使えるものではないけれど)の多くにとって消化しにくいからといって、日本人(あくまで仮にこの言葉を使うとして)全員にそうとはかぎりません。
世界最古の医学アーユルヴェーダでも牛乳を用いますしね(飲み方は定められていますし、アーユルヴェーダは多くの点でマクロビオティックと共通点があると感じますけれども)。
日本の自然療法の中でも、風邪のときに卵を使うものもありますし、要は、使いようであり、バランスなんです。
内田樹さんの言う通り、人間関係も人の健康を大きく左右しますし。(そういった人間関係の心地よさも、一つの食べ物として、マクロビオティックはとらえるわけですが。陰陽五行は、食べ物だけではなく、物事すべてに通じるものさしです。)

人の体は、同じでもあり、違いもします。
大事なのは、自分の体で感じ、自分の頭で考え、自分の心で決めることです。
自分が動くことです。

マクロビオティック教室でいろんな人に会いましたが、誰に教わったわけでもないけれど、しばらく乳製品をとらなかったら体の調子がよかったのでやめることにした、それでレシピを増やすためにここに来た、と言う方がいました。
とても素敵な、自然な行為だと思います。
なぜなら、それが「彼女の」体感だからです。
同じように、やっぱり食べている方が調子がよいと「自分が」感じるなら、そうしたらよいと思います。
今は、あまりにも多くの、外からの情報が、これを食べなさいよ食べるのをやめなさいよと紋切り型に言う(またマクロビオティックも、そうなりがち、そうとらえられがち)ので、マクロビオティックは、「あなたは」どう感じるの?という本能の回復をお手伝いをするにすぎません。

もちろん、その回復のために一定期間きっちり、いわゆるマクロビオティックのスタンダードな食習慣、生活習慣をしてみることは有効ですし、マクロビオティックのスタンダードな食事(それすらも、変化が基本なので、決まったものはないのだけど…)が、多くの人にとって、体に、心に気持ちよいものであるとは思います。
でも、マクロビオティックは、自分のその瞬間の感覚で心地よさを選ぶのに役立つ知恵(自然の法則)を教えるだけで、実際に一人一人がその瞬間瞬間どうしたらいいかは、教えません。
毎日の献立を決めるのは、あなたの感覚だけです。

また、よく誤解されがちですが、動物性のものをあまりとらないことにしがみついているわけではないし、添加物、農薬だらけで愛情もなく作られたベジ食品を一人で食べるよりは、抗生物質入りの飼料を与えられずすくすく育った動物のお肉をシンプルに愛情豊かにお料理してみんなで楽しく食べた方がよほど楽しいと思います。
要は、~を食べない、というのは、全体を見てとらえないかぎり、瑣末なことなんです。
大切なのは、自分のバランス、世界のバランスをとること、自分と世界を循環させること、感謝することです。

本当は、マクロビオティックという名前を使いたいわけではないです。
ただ、説明するのに便利なので、便宜上使っているにすぎません。
分類して名前を貼るというのはその程度のことです。
でも人はその名前に振り回されがちになります。
一つのマクロビオティックがあると思って、そこを目指してしまう。
言葉はそれそのものと一対一の関係しか結ぶことができないことが、見過ごされて。
でも、あるりんごと隣のりんごは必ず違うんです。

だから、マクロビオティックを長くしてきた先生ほどこう言います。
「あなたのマクロビオティックをみつけなさい」
「テレビや本から答えをもらおうとしてはいけない。自分の中に答えを見つけなさい」

言葉は豊かですが、世界は、言葉でとらえきれないほど豊かです。

誰も自分の人生を代わって生きてくれはしません。
マクロビオティックにしろなんにしろ、なんらかの、他人が決めてくれる「こう生きなさい」には、必然的に、限界があります。
大事なのは、ただ自分が楽しく、心地よくあることだと思います。
それは名前のつかない何かです。
あなただけの生き方です。

aya

祝 ★ 初出張料理教室

昨年12月のクラスに来てくださった方から、住まわれているシェアハウスで教室を開いてほしいというご依頼をいただき、なんて楽しそう!ということで教室をさせていただきました。

メニューは、
菜の花とたけのこのちらし寿司
ソラマメのおすまし
大豆たんぱくの唐揚げ
こんにゃくのカツ
セロリとお豆腐ディップ
いちごとにんじんジュースのクスクスケーキ

写真はもちろん上手く撮れなかったので、何割増しか美味しそうに想像して見てください。
小麦粉不要、オーブン不要の簡単デザートです

画像


参加してくださった皆さん素敵な方たちで、楽しみにしていた以上に楽しいクラス時間をすごさせていただきました。
いろいろお話する中で、やっぱり、それぞれの暮らしの中に心地よくとり入れていけるマクロビオティックをお伝えできたらなと、あらためて思いました。
マクロビオティックは、一つじゃなくて、それぞれの気持ちよさを信じて育てていくものだと思うし、そうだったらきっともっと楽しいなって思うから。

感謝をこめて。

aya

これからのマクロビオティック教室のこと 2

教室について考えていることが、もう一つあります。

みんなとやれる、マクロビオティック。

『スローメディスン』という本の中で、野口整体やマクロビオティックに関して、「ポテンシャルはあると思いますが、課題も多いと感じています。それぞれが苦難の道を歩んでいますから、外部に対して閉鎖的、保守的で、違う考えの人たちといっしょにやることへの抵抗感が強いのです。」という言及がありました。
これは重い指摘ですし、取り組みたい課題です。

本来、マクロビオティックは自由なものです。
でも、それを実践する人の手によって、狭い、一部の人だけのものになってしまいがちなことも事実です。
誰かと共に歩めない、というのは、心地よい在り方として、何か、まだやれることがあるのではないかと感じます。
あれを食べない、これを食べない、あれはダメだ、これはダメだ…そうではない、こうもできるよ、の広がりをつくること、つながること、わかちあうこと。
やり方が違う中から、次の一手を一緒に作ること。
私自身、まだ、形が見えているわけではないのだけれど。
でも、見えているなら、もうする必要がない気もしますし、未来をつくるということは、こういう感じなのでしょう。

そういう意味でも、誰かのおうちで、その家の調味料、材料を使って料理することには、大きな可能性と出会いがあるし、素敵な挑戦になるのではないかと思います。

マクロビオティックをしない人とも楽しめる、共に生きることのできるマクロビオティック。
お互いが違った形のまま、その違いの中に豊かさを見出し、生んでいけるような。

すでにいろんな方が挑戦されているように、マクロビオティックの可能性を、拓いてみたいと思います。

そしてこの態度は、マクロビオティックにかぎらず、生きることのさまざまな場面で、活きてくると思っています。

aya

これからのマクロビオティック教室のこと 1

今年することの一つとして、本気でやりたいこと、本気でやれることだけをする、という思いが、私の中にあります。
それで、今までいろいろやってきた活動(どれも根っこは同じなのですが)を、言葉中心にしていこうというのが、今年のすることです。
そういうわけで、今年は料理教室にはあまり取り組まないつもりだったのですが、ありがたいことにお話をいただいたので、今月末に一つクラスをさせていただくことになりました。

話が向こうからやってくる、相手が、私にそれができると思ってくださるということは、私にそれができるということだと思うし、楽しいことなので、やりたいなと思って。
(自分にできることというのは、自分が信じることでもあり、同時に、誰かが、あなたにはこれができると信じてくれることでもあると思っていて、だから、ときどき、あの人はすごくて私はあの人と違って…と自分を自分で下げてしまう発言を聞きますが、誰かのすごさがわかるということは、立派な長所、立派な、「できること」だと思います。)
マクロビオティックを教えることは、ライフワークではないような気がしていたし、凝った料理が作れたり舌が敏感だったりということもないのですが、それでもやれることの一つであり、料理を伝えることで役に立てたり、料理教室を通して伝えたいことを伝えることができたりする、ありがたい機会です。
これからも、少し意識を変えながら、あらためて芯をもってやっていこうと思います。

私の中で、今、興味をもっている教室があります。
やりたい教室があります。
参加者さんのお家に行って、その場でレシピを考えて、そのお家にある材料で作っていく教室。
先日、友達と、もう一人の友達のお家で料理をしたのです。
そのとき、2人が、興味深々で私の作る様子を見てくれたのが、嬉しく、面白かった。
友達が、私と料理をしたいと言ってくれてかなったこと。
友達は、私や、eat happinessを一緒にやってきたmakikoと料理をして、その様子を見て、この素材とこの素材を組み合わせていいんだ、とか、こんなやり方をしていいんだ、とか、いろんな自由を感じたそうなのです。
決まったレシピを渡すと、当たり前ですが、そこにはすでに、決まったレシピがあります。
でも、eat happinessが伝えたいのは自由。
素敵なことは、誰かにもらうこともできるけれど、自分で作ることができるし、この世界には未知の素敵さがあって、自分もそれを作る一人であること。

その場で、そこにあるものと出会って私が感じて料理を作っていく過程を見てもらうことで、料理に対して、そして人生に対して、もっと自由な気持ちになってもらえるのではないかなという、そんな希望を、友達からもらいました。
人が2人以上いたら、必ず、互いに、相手には見えなかったものを見せてあげられるし、見せてもらえるのです。

そうしてできるクラスは、クラスというより、友達どうしが一緒にご飯を作る、という感じにまずはなるかと思います。
それはもはや教室ではないかもしれないけれど、作ること食べることを分かちあいながら、この世界の自由さを喜びあえたなら、それは素敵な場所になるでしょう。

誰かの家で料理するというのは素敵なことです。
その人のやり方と私のやり方が合わさって、一つのものを作る、それはまさに生きるということだと思います。

と、言いつつ、春先にもくろんでいるクラスはレシピが先にあるクラスなのですが。
形になってきたら、またお伝えしたいと思います。

歓びを、分かちあえますように。

aya

今日すること

桃井和馬さん著『希望へ! 人間は何をしてきたのか?~悲劇の現場をめぐって~』を読んでいろいろ考えたこと。

扱われているのは、
インドネシア/破壊される熱帯の森
南アフリカ/なぜ、この国でエイズが広まったのか?
チェルノブイリ/わすれられた原発事故の悲劇
ルワンダ/憎しみをのりこえて
(目次より)

P42
「ここで考えてみたい。
なぜ、アフリカに白人やアジア人が住むようになったのか?
なぜ、アフリカでは難民や飢餓が頻繁に発生するのか?
なぜ、アフリカで、戦争や紛争が多いのか?
なぜ、アフリカでは、五三もの国が生まれてしまったのか?」

ここで考えてみたい。
ここでされているのは、今から過去を振り返る行為だけれども、逆に、そして確実に、将来私たちも振り返られる側になるということ。
「なぜ今、動植物、人間の突然変異が増えたのか?」といった具合に。
これにかぎらず、今生きている私たちがすることは、すべて、未来の命に影響する。
私たちも必ず問われるし、今自分で問わなければならない。
私たちは誰かに苦しみの種を蒔いていないかどうか。

人は完ぺきではないから、一生、喜びの種も苦しみの種も蒔きつづけるんだろうけど。
たとえそうであっても、そのことを考え続けるのが、人間の仕事だという気がする。

つまり人は、どれだけ一人で生きようが、必ず、生命の鎖でつながっているということ。
一人ではないということ。
その喜びと、背負うものと、優しさと。

誰かの優しさの上に自分があること。
自分も誰かに優しさを残すことができること。
それは過去に、未来に、分け合うこと、共にもつこと。


P52
「差別の根本は、法律でも立ち入ることができない人の心、そうじゃありませんか?差別はわたしの中にも、あなたの中にも、だれの心の中にもあります。問題はそれをどうのりこえていくのか、です。……だから長い年月がかかる」

私は長年ホロコーストに関心をもっている。
そして(どういう形でかは分からないけれど)再びホロコーストが起こると思っている。
人はもうアウシュヴィッツを忘れている。
忘れていなければ、カンボジアが、ルワンダが起こるはずはなかった。
忘れていなければ、三里塚が、水俣が起こるはずはなかった。
世界の各地で、人の生活が、根こそぎ奪われるはずはなかった。
人が人に、心底、大切にされないはずはなかった。

今上に並べたものを並べることに、違和感を感じる人もいると思う。
規模が違い、殺されたかどうかが違い、具体的な原因と結果が違う。
けれど私は、根本は同じだと思う。
人が人を大事にして、尊敬できなければ、悲しいことが起こる。
最終的に、ホロコーストになる。


P109
「(前略)ベルギーのやり方には問題があった。
すでに王国をつくり、権力の座についていた人口一割のツチを利用して、国の九割を占めるフツを間接的に支配しようとした。その場合、ベルギーが無茶な支配体制を敷いたとしても、フツの不満はツチにぶつけられ、その背後で命令をだすベルギーに影響はない。」

こちらも長年関心のある、ルワンダのこと。
あの憎しみは、やはり、自然発生したものではなかった。
再び最初の問いに戻る。
ベルギーのしたことが長い年月をかけて大きな禍根となったように、私たちも今、大きな苦しみの種を、知ってか知らずか、蒔いていないか。


P120
「でも実際には多くの善良なフツまでかかわって、虐殺が進行してしまった。ではなぜそうなってしまったのか?
理由は、フツ社会で信頼されるリーダーたち、みんなの見本にならなきゃいけないそんな連中が、虐殺に深くかかわっていたからだ。たとえば牧師、たとえば医師、たとえば教師、それに村のおえらいさんや政治家たち、それに絶対わすれてはいけないのがメディアだった」

学ぶということの責任は重い。

たとえば原発は、研究から生まれた。
読み書きする文化のない場所で、原発は生まれない。
それは必ず、考え、研究するという文化、大学を筆頭とする、良くも悪くも考える文化・共同体から生まれた。
私はその共同体を愛し、その共同体の恩恵を受けて考える力を身につけ、人生を楽しんできた。
だから私は、一市民としてはもちろん、特殊に知的な文化圏に生きる人間、学問が好きな人間として、あの原発事故に責任がある。

考えることは、素敵で、素敵で、素敵で…でも、野蛮でもあると、忘れないことが、きっと、悲しいことを超えさせてくれると信じてる。
複雑なことが考えられるということは、素敵なことも考えられるけれど、おぞましいことも、上手に考えられるということを、ただ事実として、認めた上で、だからこそ、複雑に(つまり、冷静に観察すること)、かつ単純に(大事なことを見失わないこと)考えながら、歩いていきたい。


桃井さんの結論は、私がずっと考えてきたことと同じだし、平和を真剣に考え行動する人は、みな同じ結論に行きつくと思う。

P130
「重要なのは、それを認めたうえで、異なる考えの人と、どのように協力していくのか。もっといえば、嫌いな人とどうやって、一つのことを行うか、なのだ」

これを、一人一人が、毎日やるしかないと思う。
スローガンにして空に向かって言うのではなくて。
誰に向かって言うのでもなくて。
ただ、まず、自分がする。
つらくて、遠くて、でも、一つしかない近道。
幸福な。

aya

フェルデンクライス受けました

フェルデンクライスという、整体の一種みたいなものを初めて受けました。
と言っても、一般的な整体のつもりでいくとかなり驚くと思いますが、私はわりといろいろな施術を受け慣れているのでそこまで驚かず…いややっぱり驚いた。
抵抗感はないけど驚いた。
自分がクラゲになったみたいだった。
自分の体を先生が動かしているような、自分の体が勝手に動いていくような。
理論的には、赤ちゃんが立つことを覚えていくのを再現する、ことを通して、体がこう(今の状態)もいられるしこう(気持のよい状態)もいられるよ、動けるよ、というのを導き、その感覚を体に記憶させる、というもの。

気持ちよさを体に記憶させることで再現性を上げていくというのは、マクロビオティックやアーユルヴェーダを含めていろいろな代替療法に共通する部分ですが、よい姿勢を覚えるのではなく、感覚を覚えるっていうのは、ほんといいなあ~
例によってまたアレクサンダー・テクニークも思い出しつつ。

くらげみたいに自分が動く、勝手に動くという点では野口整体や操体法と通じる部分もありそうだなあとかも考えつつ。
体ってほんとに素敵だ。
自分の気持ちよさを分かってるんだもの。

そしてとても印象に残った言葉が、「今日気持ちよければ、きっと明日も気持ちいいですよ」という言葉。

明日気持ちよくなるために今日気持ちよくないことをしてる人っていっぱいいると思うのだけど、そうだよね、今気持ちよくなることこそ一番!と、あらためて思いました。

「快が分からなければ不快は分からない」という、ウーマンリブの指導者にして鍼灸師田中美津さんの言葉はやはり至言だ。

aya

打ちのめされるようなすごい人

ロシア語通訳者として活躍されていた米原万里さんの著書に、『打ちのめされるようなすごい本』という本がある。
文字通り、打ちのめされるようなすごい本を集めた本で、(前半は)面白かったのだが、本はすべからく人が書いているわけで、本もいいけれど、打ちのめされるようなすごい人に会えるというのは、やはり極上である。

先日、本のことで友達と話していて、打ちのめされて、賢くなろうと思った。
単なる量の話ではなく、出会った本と、どう向き合って、どう関係を育むか。
もう一段、深いところにいきたい。
そのために、今と違う次元で取り組むときがきたのだと思う。

やっぱり、打ちのめされるようなすごい人に会うこと、は大切である。

aya

世界で一人だけ間違っても正しくても

都知事選の頃切り抜いていた新聞記事の整理をした。
「脱原発を目指すべきだが当面は必要」が61%。
さてこの数字の裏は。

原発を嫌だと思っている人はそれなりにいると思う。
でも原発ないと経済ダメなんだと言われるとぐらっとくる人もまた多い。
なんだか反対してはいけないような空気がただようから。
(実際には原発やめた方が経済的にもいいけれど、反対派は、こういう情報や説明の提示で出遅れていると思う。経済より安全が大事、みたいな、相手が確実に嫌いそうな方向にばかり行きたがって、どうやって相手を理解しまた理解してもらい折り合いつけるかという方向にはなかなか向かわない。)

さてこういうとき、自分で調べたり考えたり突っ込んで話し合ったりまずはできるところから動いたりするか、それともさしあたって周りで形成された大きな声に従うか。

原発に賛成しておけば、間違っていても多数派でいられる、みんなと一緒に間違えられる、「だってたくさんの人がそう思ってたんだから仕方ない」「安全は大事だけど経済のこともあるから仕方ない」って言える。
仕方ないという言葉には、本当はこうしたいんだけど、世の中そうはいかないんだよってことを私はちゃんと理解していますよ、本当はこうしたいんだけど、状況がそれを許さない、だから私は悪くない、みたいな、悪い意味で大人ぶった嫌なにおいを感じる。

マイノリティーになりたくない、間違うとしても多数派でいたい、要はぶっちゃけ、自分の意思によって間違うのは避けたい、意識的にそこまで思ってはいないだろうけれど、そういう深層心理が透けて見える。
とどのつまりは、間違えるなら、他人のせいにできる間違い方の方がましだと。
世界で一人だけ正しいくらいなら間違ってるみんなの一パーツでいたいと。

でもそれ、そんなに目指すことかな。

いや、私は、原発いらないって言うことが間違ってるとは思わないけど、そういう話ではなくて。
間違えない人生なんてないと思うのだ。

世界中で一人だけ間違っちゃっても、自分で真剣に、誠実に、愛情たっぷり考えて望んだことなら、それでいいと思う。

たぶんけっこう多いのが、考えるのをやめてるのではないだろうか。
思考停止させてるのではないだろうか。
そうしていれば、幻想だけど、ラクだから。
関わっていないふりをしておけば、何かあったときも誰かを批判していればすむと思われてるから。
自分は考えなくなくても誰かが考えてくれるし、考えた誰かが間違ってたら考えた誰かが悪いのであって考えなかった自分は悪くない、みたいな。
動くとたしかに、(暫定として)間違ったり正しかったりするんだけど、動かないこと自体が間違いという場合もあるのだが。

自分で考えて考えて原発やりたいならそれはそれでありだし、考えるの嫌だから原発賛成でも反対でもいい、その代わり一切文句言わない、ならそれもぎりぎりありかなと思うけれど、考えない動かない、ただし何かあったら「政府は何やってたんだ」って言うのは、うーん。

私は、世界中で一人だけ正しい(と、自分が思う)のでもいいから、自分が楽しいと思ったことをしたい。
世界中で一人だけ間違うとしても、間違うなら自分の意思で間違いたい。
自分で決めて、間違ったり正しかったりしながら、正しさも間違いも人間一人に分かるはずもないってことも全部ひっくるめて、自分で動きたい。

aya

シンボルスカ、言葉の前と後。

またしてもメルマガhttp://melma.com/backnumber_184495/に書けなかったことを。
ポーランドの詩人ヴィスワヴァ・シンボルスカのことをすごいと思った最初の瞬間は、ずっと以前、柴田元幸さんと沼野充義さんのトークセッションの際に配られた資料に載っていた、「九月十一日の写真」(沼野充義訳)を読んだときでした。

9.11でビルから落ちて行く人々を、彼女は、「まだ~」という形で、それからどうなるかを含ませながら言葉にせずに、最後の句につなぐ。

「あの人たちのために私ができるのはふたつだけ
この飛行を描き
最後の一行を書き加えないこと」

彼女はたしかに人々の落下を描き、しかしどうなったかを書かず、けれどそれは読む者の脳裏にはすでに書かれているのです。

書かないけれど、書いている。
言葉は、書く力を持っているけれど、書かずに語ることができるということを、強く知った瞬間でした。

シンボルスカは、当たり前だけれど、言葉に敏感な人です。
同じ資料に載っていた、「とてもふしぎな三つの言葉」(同上)という詩はこう。

「「未来」と言おうとすると
 「み」はもう過去のものになっている

 「静けさ」と言うと
 静けさがだいなしになってしまう

 「何もない」と言うと
 何もないわけではない何かが生まれる」

言葉という存在の性質が招く不思議を、軽やかにとらえて平易に語って見せてくれる、物事を見すえる透徹な目をもち、同時に言葉の本質を鋭く知っている人だと思います。

もう一つ、『橋の上の人たち』所収、「一粒の砂のある光景」から。

「わたしらはそれを砂粒と呼ぶ
 それにとっては粒でも砂でもないのに。」

「わたしらの視線や接触も役にはたない
 それは見られたとも触られたとも感じはしない。
 窓の枠に落ちたのも
 わたしらの経験であり、それのではない」

「湖の底にとり、底はなく
 その岸にとり、岸はない。」

言葉が、いかに、名指す側の人間を主体として成り立っているか。
言葉という存在そのものの根幹を暴くとき、そこには人間が作ったことによる言葉の避けられない限界が露呈するのです。
言葉の基点、土台が揺るがされるとき、言語によってとらえられる世界が崩壊していくような感覚を覚えます。

言葉の不思議と、それと同じ場所にある存在の不思議を見せてくれる、シンボルスカの感覚が、やっぱり好きです。
そのまなざしは、私たちが日々陥りがちな思い込みが、自分の頭の中だけのものであるかもしれないことを、言わずに、しかしはっきりと表してくれます。

私たちが身につけた言葉が、いかにいろいろなことができて、かつ奇妙な性質をもつことか。
言葉にせずに表現することも出来れば、言葉にすることで絶対的に失うものもある。

言葉という砂上の楼閣の上に成り立つ思い込みの世界。
言葉にできる鮮やかなないろいろの上で、区切られた世界はいかにも確かに見えるけれど、本当はもっと不思議で、存在たちが等しく生きていることを、シンボルスカを読んでいると、ありありと感じます。

aya

ルピナスさんのこと

今月のメルマガ「もう一人のルピナスさんのこと」の対の文章です。
メルマガではビネッテ・シュレーダーの『お友だちのほしかったルピナスさん』を強く推しましたが、でもやっぱりクーニーの『ルピナスさん』のことも書きたいなあと思ったので。(ネタばれあり、ご注意)

バーバラ・クーニー『ルピナスさん』ほるぷ出版

船でアメリカにやってきたおじいさんをもつアリスは、自分も大きくなったら遠い国に行き、おばあさんになったら海のそばの町に住むと約束します。
すると、

   「それはけっこうだがね、アリス、もうひとつ、しなくてはならないことがあるぞ」お
   じいさんがいいました。
   「なんなの?」アリスがききました。
   「世の中を、もっとうつくしくするために、なにかしてもらいたいのだよ」
   「いいわ」なにをすればいいのかはわかりませんでしたが、アリスはおじいさんに
   やくそくしました。

大きくなったアリスは最初の二つの約束をはたし、三つ目の約束のことを考えます。
そうしてアリスは、大好きなルピナスの花の種を、村中にまきました…

物語の最後、今ではルピナスさんと呼ばれている年とったアリス(大おばさん)は、小さなアリスにかつての自分と同じことを言われ、おじいさんと同じように答えます。

   「それはけっこうだね、アリス。でも、もうひとつしなくてはならないことがあるよ」
   大おばさんがいいます。
   「なあに?」
   「世の中を、もっとうつくしくするために、なにかしなくては」
   「いいわ」わたしはやくそくしました。

   なにをすればいいか、
   いまはまだわかりませんが、きっといつか、わかる日がくるでしょう。

世の中をもっと美しくするために、花の種をまくこと、しかも、村中に。
世の中を美しくするために自分が人生ですることが、すぐにはわからないけれど、いつかわかること。
どこをとっても素敵なお話です。

メルマガを書きながら最後に思い当たったのですが…
たぶん私は、こういうことは、誰かに言われるのではなく自分で見つけるものだと思っているのです。
世の中をもっと美しくする、一人一人の仕事があるのだということそのものを、人はみんなまさに自分の人生の中で発見するんじゃないかなあと私は思っていて、それを絵本から言われたものだから、驚いてしまったのです。
言っていることは素敵なのだけど、子どもの本は、語らないけれど語られているのがいいところなのではと思っている節があり、なんとなくこの絵本は大人目線に見えて。

クーニーが好きなのに『ルピナスさん』は素直に好きと言えないのはなぜだろうと思っていましたが、上の話に落ち着きました。

だけど素直に好きな部分もあります。
小さなアリスたちが、なにか素敵なことをするという約束を、今はまだ分からないけれどするところ。
そして、子どものときにしたその約束を、本当に実行すること。
それはとても素敵な人生だと思います。

最後にもう一つ、私は絵本には、世界は今このまま、美しいよ!と言っていてほしいと思っているみたいです。
それはちょうど、クーニーのこの絵本がそのまま、澄んで美しいように。

aya
 

自己紹介

昨年夏に初めてお会いしたお友達と、半年ぶりに再会した。
初対面の際にはお話だけをしたが、今回は、ピアニストである彼女の演奏を聞いた。
あとで彼女から届いたメールに、「ちゃんと自己紹介できた感じ」とあった。
それだけでやられた。

ピアニストである彼女が、演奏を聴いてもらってようやく自己紹介ができたと感じる、そのことが、すごいと思った。
いや、すごいと思ってる場合ではないのだけど。
自分で考えるなら、彼女にとっての音楽は、私にとっての言葉なのだけど、まあ言葉は曖昧なところがあって、作品以外に、話すだけでも言葉を使うし感覚や考えを言うから作品を読んでもらわなくても通じたような感覚になりやすいのだけど、いやとにかく、言葉を読んでもらうことは、嬉しかったり緊張感があったり自分が一番さらけ出されたりはするけれど、自己紹介です、としてとらえたことがなかったから。
でもはたと眼を見開けば、あまりに当たり前で。

自己紹介は、難しい。
したくないくらいに。
丸ごと生き方をみてもらうしかないと思うくらいに、苦手だ。

でも、ピアニストがピアノを演奏して自己紹介だと言う、その当たり前のこと。
何をすれば、自分という人間が一番よくわかってもらえるか、ということと、一番精魂こめてしていることが、一致しているということ、その自負があるということ。

そんな姿にふれて、私もきりりとした気持ちになったのです。

自己紹介って、なんだろう?
いつするんだろう?
できるなら、ずっと自己紹介をしていると言えるくらいに、常に、全部、自分で在りたいなと、結局私の思考は日常に回帰するのでした。

aya

新年初お弁当

昨日のお弁当です。
新年初お弁当。

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母にもらった手作り紅生姜が、花びらみたいできれいです。

この曲げわっぱのお弁当箱は2代目で、毎日一人フル回転で頑張ってきてくれた初代さんのために購入し、最近はもっぱら2代目を使っていますが、たまに初代も出動します。
曲げわっぱは高そうに見えるかもしれませんが、合羽橋道具街(料理道具の問屋街)に行くと手頃な価格で購入できますので、気になる方はぜひ!
お弁当タイムがときめき時間になります

このはじまりの気持ちを忘れないように、今年もおいしいお弁当を食べるぞ

aya

歓び

あけましておめでとうございます。

今年の御節は、初めて重箱に詰めることができました。

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このような機会に恵まれたことに感謝して歓ぶと共に、新年の歓びは元旦だけのものではなく、一日一日一瞬一瞬、歓びのあることを感じて生きていきたいと思います。

愛と感謝と祈りをこめて。

aya

夢のまるごとかぼちゃ

今日の晩ごはん。

中島デコさんのレシピを思い切り省略して作った、スタッフドパンプキン。
夢の丸ごとかぼちゃです。

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こちらはまだ固まりかけの段階なのですが、おせち用の紅白テリーヌのついでに作った、にんじんとブロッコリーのテリーヌ。

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それから今日は、かまぼこを作りました。
初めてで出来はまだこれから、という感じですが、年々上手になっていけたらいいなと思います。

今日もありがとう。
明日もありがとう。

明日は何を作ろうかな

aya